Meta:Koichi Nakamura talks about the secret to making games

MDFW - The Mystery Dungeon Tree of Information.
Jump to navigation Jump to search

This Q&A was posted to the website ch.nicovideo.jp by 稲葉ほたて on August 15, 2014.[1]

Questions and Answers

【聞き手・構成:稲葉ほたて】


ドラゴンクエストシリーズ、かまいたちの夜、トルネコの大冒険、風来のシレン……そんな誰もが知っている名作ゲームの数々の開発に関わってきたのが、現在は株式会社スパイク・チュンソフトの代表取締役会長を務める中村光一さんだ。

自作ゲームでも大人気ジャンルであるRPGやノベルゲーム、ホラーゲームなどの日本における走りとなる作品の開発に関わってきた彼が、かつては"自作ゲーム"のクリエイターだった――と言ったら、読者の皆さんは驚くだろうか。

まだ高校生の中村さんがコンテストで受賞してゲーム業界に飛び込んだ80年代、ゲームはまだ生まれたばかりの新しいメディアだった。作り手も若い人たちが多く、少人数で1ヶ月程度で作られるのが普通だったという。実際、このインタビューでも中村さんが語っているように、ドラクエ1ですらも10人に満たないスタッフで3ヶ月で作成されており、メインプログラマを務めた中村さんの年齢は、当時わずか22歳だった。

今は遠い昔となった、テレビゲームの市場がまだよちよち歩きを始めたばかりの時代。その頃のゲーム業界の話は、むしろ現在の自作ゲームの世界に似ているところが少なからずあるようだ。そこから現在までゲーム業界の第一線を走り続けてきた中村さんに、その頃のお話や、当時より変わらぬゲーム作りの魅力について聞いてみた。



中村光一(なかむら こういち)


1964年8月15日、香川県で生まれる。スパイク・チュンソフト代表取締役会長。高校生時代から、雑誌へのプログラム投稿者として名を馳せる。大学在学中の1984年4月9日に株式会社チュンソフトを設立。『ドアドア』『ポートピア連続殺人事件』、『ドラゴンクエスト』シリーズ(Vまで開発を担当)、『風来のシレン』を始めとする不思議のダンジョンシリーズ、『かまいたちの夜』や『街』といったサウンドノベルシリーズなどを手がけており、代表作多数。


『街』の開発者に『Chime』を見せてみた

ドワンゴの「自作ゲームフェス」担当者(以下、D担): 実は今、ニコニコ動画のゲーム実況の影響で、自作ゲームが若い子の間でブームになっているんですよ。10代のクリエイターも結構、登場してきているんです。

中村光一(以下、中村): へえー、そうなんですか。ちょっと見せていただけますか。

D担:例えば、これは自作ゲームフェスに応募された『Chime』というゲームで、やはり制作者はひじょうに年齢が若いです。このレトルトさんという実況者の人も説明していますが、チュンソフトの『街』と同じザッピングの機能を実装して、複数のキャラクターのシナリオを同時並行で攻略して、進めていくんですよ。

中村: こういうふうにゲームが遊べるようになると、なんだか僕たちの仕事がなくなっちゃいそうだ(笑)。このザッピングはRPGツクールで作ってるの?

D担: ええ。RPGツクールは長く使われてきたおかげで、今では色んな使い方ができるのがわかってるんです。

例えば、このゲームなんかはお化け屋敷を歩きまわるだけのゲームです。なんと戦闘シーンもなくて、ツクールのマップ画面上でオブジェクトの動きを利用して、ホラーゲームの仕掛けを実装しただけです。もちろん、ゲームオーバーもありません。

これなんかは、もう実況されることを前提にして作っているゲームだと思います。実際にゲーム実況者のイベントでプレイされたときには、彼らが怖がる姿に女の子の観客がキャーキャー言って喜んでいました。

中村: 面白い……! 面白いね。そんなことになっているんだ。もしよければ、このゲームの動画たちのリンクを、ぜひあとで送っていただけますか?

D担:こちらこそ、ぜひお願いします。あとで人気のものはひと通り送らせていただきます。

――なんだか、いきなり面白い展開に……(笑)。

実は今日、こうしてお邪魔しているのは、彼らのような新しく登場してきた若い自作ゲームのクリエイターやそのファンたちに、ぜひ中村さんの若い頃のお話を聞いてほしいからなんです。まだゲーム開発が大規模化する前の、少人数での開発がゲームの歴史を動かしていた頃の話です。その時代のことを、『Ib』や『霧雨が降る森』などの作品に憧れてツクールを買ったような子たちに話していただければ……と思います。

やっぱり天才? 高2にしてゲームで100万円の収入

――中村さんは1964年生まれですね。ゲームに触れたのは、いつの頃なんですか?

中村: そもそもね、僕が子どもの頃はまだアナログのゲームしかなかったんです。ゲームセンターすらもなかったです。デパートの屋上なんかに、機械じかけのドライブゲームが置いてあってハンドルをまわすと紙で巻かれた道が進んでいく、とかね。

その後、中学生のときにタイトーの『スペースインベーダー』が大ブレイクしたんです。当時は大流行して、テレビで芸能人が筐体を家に置いているという話を見て羨ましがったものです。ただ、まだ単なるゲーマーであって、よもやその後自分がゲームを作るなどとは想像もしていませんでした。

――実際にゲーム開発を始めたのはいつ頃ですか?

中村: 高校に入ったときに、部活紹介で数学同好会という部が、当時流行していた『平安京エイリアン』のデモ画面を見せてくれたんです。それで「ひょっとしたら、ここに入ればタダで毎日ゲームが出来るのでは……?」と思って、そのまま入会したんです(笑)。実際に中に入ってみると、フローチャートやアルゴリズムについて本格的に教わることになり、どんどんプログラミング自体の面白さにすっかりハマっていきました。

自分のパソコンを買ったのは、高1の夏休みでした。当時『I/O』という雑誌に、芸夢狂人というP.N.の人が2ヶ月連続で面白いゲームのプログラムを投稿していたんです。それを見て「これをやりたい!」と思いました。それで、せっせとアルバイトをして、当時発売されたばかりだったNECのPC8001という、カラーが使えるパソコンを買いました。

――中村さん自身も、投稿でかなり有名だったと聞きました。

中村: 最初は、ゲームセンターで自分がハマったゲームを作ることから始めました。当時はビデオカメラやスマホもないですから、頭の中でイメージを記憶して、それを家で再現していくんです。ドット絵はこんな感じだったな、あの動きはこういうプログラムはこうだろう、とね。

それで、少し良いものができたのでさっそく雑誌に応募したら、さっそく掲載されてしまい、それが発売されてしまったんです。当時はカートリッジではなくて、オーディオのカセットテープに信号が入ってるのですが、それが3000円くらいで売られて、売上の10%のお金が入ってきたら30万円か40万円になって……こりゃあ儲かるぞ、と(笑)。

それで、今度は高2の夏休みにコナミの『スクランブル』というゲームを真似したプログラムを作ったら、それも発売されて、今度はなんと100万円を超えるお金が入ってきてしまった。いや、もう高校生にして「確定申告、行ってきまーす」という感じでした。

――うらやましいですね(笑)。でも、最初は真似からはじまったんですね。

中村: ただ、例えばパックマン一つ真似するにしても、敵キャラには真っすぐ追いかけてくるやつもいれば、回りこんで追いかけてくるやつもいて、動きが全然違うわけでしょう。そこは自分の頭で一つ一つアルゴリズムを考えてプログラムしていかなきゃいけない。

それに、スクロールゲームなんて、当時はデータ容量が小さかったから、普通に組むと3画面程度でメモリが足りなくなってしまうんです。そうなると、データ圧縮を勉強しないといけないし、自分の頭で色んなアイディアを出して突破していく必要があるんです。当時はそうやって勉強していくんですね。

――あの、先ほどから、さらっと天才エピソードを聞かされている気がするのですが……中村さんについて来られる友人はいたんですか(笑)?

中村: いやいや! 僕のいたパソコン部では、機械を直接にいじって「CD3B0100…」みたいな感じで、数字でプログラムを書くような先輩たちもいましたから(笑)。僕なんて市販のアセンブラを使って作っていた程度ですから、まだまだでした。

しかも、その先輩たちはCPUと命令の対応を書いた英語の説明書を読んでたんです。そんな彼らを見ていると、僕もやっぱりマシン語をいじりたくなってきて、一生懸命にBASICを逆アセンブルして勉強したものですよ。実に大変な時代でした。

D担: ……それもそれで、あまりいないのでは(笑)。

中村: そうかもしれない(苦笑)。でも、仲間たちはいましたよ。

例えば、町内にいた別の学校の先輩には『Rally-X』というスクロール型のレースゲームを、素晴らしい精度で再現している人がいました。彼は当時まだ高価だったプリンタを持っていたので、よく借りに行きましたよ。

まだパソコンを持っている人が少ない時代だから、その分だけみんなアツかったんだと思います。もう相手が隣町に住んでいようが電車に揺られて会いに行って、みんなでプログラムを持ち寄ったり、ゲーム談義に花を咲かせたりするんですよ。

しかも、あの頃はゲームをするときには、自分で『I/O』のような雑誌に載ったプログラムを打ち込んで遊ぶような時代です。これを一人でやると何日もかかって、本当に大変なんですよ。だから、同じ機種のPCを持ってる連中と仲良くなって、それぞれで分担して入力する。それで最後にみんなで持ち寄って、「やったー! 動いたー!!」と喜ぶわけです。

初のオリジナルゲームのデザイナーは高校の友人

――黎明期ならではの空気ですね。そういう中で、中村さんは高3のときにエニックスのコンテストで入賞されていますね。

中村:その頃、PC8801からPC9801になって、16bitマシンが遂に登場したんです。当時は何十万円もする商品だったから、高校生が手に届く額ではないのだけど、とりあえず店頭に足を運んで「欲しいなー」と眺めるわけですよ。

そうしたら、それを見ていた店長が「中村くんなら、これに応募して稼げばいいじゃない」と言ってチラシを渡してきたんです。それがそのコンテストで、見たらなんと一等賞金が100万円。「こりゃ本体のついでにモニターとプリンタも買えるぞ!」、となりました(笑)。

結局、それが業界に入ったキッカケでしたねえ。優勝は逃してしまったのですが、2位になりました。そのときに生まれたのが『ドアドア』です。

――これが初めてのオリジナルゲームなんですよね?

中村: そうです。……でもね、最初は当時ハマってた、ナムコの『ディグダグ』のプログラムを提出しようとして、一生懸命にキャラクターを真似て作ってたんです。


なんていうのかな……あの頃はまだゲームの世界では著作権が非常にあやふやで、インベーダーなんかも色んな会社から類似作品が出ている状況でしたから……。


――そうだったんですね……! さっきから、コピーの話がずっと出ていて、大丈夫なのかと秘かにはらはらしていました(笑)。

中村: でも、もしかしたらマズいかもしれないと思って、一応エニックスに電話してみたんですよ。そうしたら、やっぱり「オリジナルでお願いします」と言われてしまい、「ああ……」と(笑)。まあ、そんなに甘くなかったわけです。

D担: なるほど(笑)。

中村: ただ、『ディグダグ』は凄く好きだったので、このゲームの面白さを自分なりに抽出して、なんとか自分ならではの形に変えてみる方向に方針を変えました。

具体的には、『ディグダグ』って、追いかけてくるモンスターを少しずつ間合いを詰めて固めた上で一気に岩を落として倒すと、高得点になるんですよ。ここが面白いところだと思ったので、『ドアドア』ではモンスターをドアに閉じ込めていって一気に倒すという作りに変えてみて、その爽快感を再現したんです。

あとね、当時の友だちも手伝ってくれてたんですよ。(ファミコン版『ドアドア』のパッケージを手にとって)このキャラクターは、高校のパソコン同好会の友達が「中村がオリジナル作品を作るなら」とデザインしてくれたんですよ。

――高校の友人ですか。本当に現在の自作ゲームみたいなノリだったんですね。

中村: 中学生や高校生でも、作りたいという熱い気持ちがあって、実際に才能溢れる人は沢山いるんですね。それは今も昔も変わらないはずです。

高校時代の仲間たちとチュンソフトを起業

――その後、東京の大学に入ってすぐに、中村さんはチュンソフトを立ち上げますね。

中村: 『ドアドア』のデザインをやってくれた友だちだとかの高校時代の仲間が結構、大学で東京に来てたんですよ。それで、彼らと東京で知り合った仲間たちと一緒にアパートの一室に集まって、毎日ゲーム開発をしていました。

最初は、『ドアドア』のPC版、次は『ニュートロン』というゲーム……と開発してきたのですが、大学1年生から2年生に上がる春休みだったかなあ。その中の一人が、「ちゃんと法人登記して会社にしよう」と言い出したんです。「夜な夜なアパートに集まってるのも近所迷惑だし……」みたいなことも言われて、「それもそうだな」と(笑)。そういう感じで会社にしたので、当時のノリは完全に学生サークルの延長線上でしたね。

――本当に、近くにいたゲーム仲間で起業してしまったんですね。

中村: ただ、当時のソフトハウスでも学生ばかりで起業したのは珍しかったですよ。他はさすがに、もうちょっとちゃんとしてました(笑)。

その後、会社にしてからすぐにファミコンが出てきたんです。それで『ドアドア』のファミコン版を作ったら売上に手応えがあったので、今度は少し大人向けの頭を使うゲームを作ってみようと思いました。

具体的には、当時のファミコンソフトは、アクションゲームやシューティングゲームばかりだったので、アドベンチャーゲームを仕掛けてみたくなったんです。それでエニックスさんに相談したら、実は堀井雄二さんが作ってる『ボートピア連続殺人事件』というゲームが画面数も少ないし、ちょうどファミコンにいいかもしれないと言われて……。

――堀井雄二さんの登場ですね。当時としては、相当に物語性の高い野心的なゲームですよね。

中村: 堀井さんとは、もう会ってすぐに意気投合しました。しかも、彼は当時すでにライターでしたから、文章も優れているし、物語も大変によく練りこまれていて、しかもオチは……もう言ってもいいと思いますが、あの「犯人はヤス」でしょう(笑)。評判も上々で、当時たけし軍団の人たちがラジオ番組で話題にして、今でいうところの"ゲーム実況"みたいなことまでしてくれたんです。

それで、さっそく堀井さんと次のネタを考え始めたんです。

鳥山明、すぎやまこういち……次々に増えていく仲間たち

中村: 二人で話したのは、次はRPGを作りたいということでした。当時、堀井さんは『Ultima』にハマっていたんです。そして、僕は『Wizardry』にハマっていた。じゃあ、それを合体させよう、と(笑)。でも、もちろん日本人にも馴染みやすいように、親しみやすい工夫は入れていく。

――ドラクエの誕生ですね。

中村: しかも、当時ジャンプで連載を持っていた堀井雄二さんが、それを"Dr.マシリト"の鳥嶋編集長に話したら、「じゃあ鳥山明さんとやりましょう」という話になってしまった。

さらに制作を進めていたら、今度はエニックスの人が「実はとあるゲームにアンケートを返してくれた人が、あのすぎやまこういち先生で"ぜひ一緒に作りたい"と言ってるのですが……」と言ってくるわけです。

――まさにRPGみたいな流れになってますが……これはテンション上がりますね。

中村: いや、むしろ僕は最初……実は「この人は本当にやる気があるのか」と疑って、反対してました(爆笑)。

だって、すぎやま先生ですよ! 大ヒット曲を沢山飛ばしてきた音楽界の大御所ですし、当時はパナソニックのステレオのCMにも出ていて、テレビでもよく見かける人です。そんな人がゲームの音楽なんてやってくれるだろうか、と思うじゃないですか。どうせちょろちょろと適当な曲を作って、誤魔化されてしまうんじゃないかと危惧したんですね。

ところが、実際に会ってみると、下手をすると僕よりもゲームに詳しいんじゃないかというくらい、本当に当時出ていたほとんどのゲームをやられていたんです。しかも、僕が知らないような昔のゲームまで知っていて、非常に深く分析をされていた。それで「この人なら……」と思って、お願いすることにしたんです。

――実際にドラクエ1に関わったのは、何人くらいだったんですか?

中村: たぶん、全員合わせても10人行かないくらいじゃないかな……。サウンド以外のプログラムに関しては、僕が一人で書きましたし。制作期間も3~4ヶ月じゃないかなあ。

――現在の自作ゲームと、あまり変わらない規模ですね。

中村:だって、当時のゲームなんて、1ヶ月くらいで作るものだったからね。ポートピアもそんなものですよ。ドラクエ1は、むしろ時間がかかった方です。あの頃はサイズも小さかったし、メモリも高かったし……現在だったら、たぶんスマホで一枚写真を撮れば、その容量でドラクエ1が何個か入るでしょう。

――当時は、何歳くらいだったんですか?

中村: 19歳の時に会社を興して……たぶん22歳ですね。同級生で起業したので、他の社員もそのくらいの年齢でした。ドラクエ5の頃で、27歳だと思います。

D担: いや、凄いですね……本当に自作ゲームフェスに投稿してくる人と同じくらいの年齢だったんですね。今度、自作ゲームの講習会を開くのですが、やはり10代後半から20代の子たちが応募してきています。

『トルネコの大冒険』はニコニコ動画に向いていた?

――自作ゲームへの影響という点ではドラクエも大きいと思うのですが、ドラクエシリーズから離れてパブリッシャーとして出した、『弟切草』や『かまいたちの夜』のようなサウンドノベルも結構影響が大きい気がします。結果的に現在のノベルゲームの走りになっていますよね。

中村: 『弟切草』は、ドラクエ5の制作中でスタッフがほとんどそっちに掛り切りだったときに、「それでもオリジナル作品を作りたいよね」というところから始まりました。それで、プログラムもゲームデザインも複雑じゃないものを考えたら、音とテキストで出来るこれだろう、となった(笑)。

それに、実は黎明期のアドベンチャーゲームが、基本はテキストアドベンチャーだったんですよ。米国だとAppleの『ゾーク』が有名だし、日本だとアスキーさんの『表参道アドベンチャー』が有名です。絵がなくてテキストだけだから、どんどんイマジネーションが広がっていくんです。こういうのも面白いなあ、いつかやりたいなあ、と思っていたというのもあります。

――ホラーゲームというのも新しい要素だった気がします。

中村: 実はその前に、カプコンから『スウィートホーム』という映画原作のホラーゲームが一つ出ているんです。あれは、いま思えば『バイオハザード』に繋がっていく流れだったのかもしれないですね。

僕らの場合は、当時、スーパーファミコンになってグラフィックも向上したと同時に、リアルなサウンドやサンプリングを使えるようになって、それを上手く使いたいというのが発想の出発点でした。それで色々と考えた末に、音を使って表現しやすいのは、ひとつにはエロ、もうひとつは驚きや怖さのようなホラーだと思ったんです。でも、エロはスーファミでは無理だから……(笑)

D担: いや、僕の記憶では"ピンクのしおり"があったような……。

中村:まあ、ちょっとだけね。でも、大事なところはCDで配りました(笑)。

ともかく、ホラーならば女の人の叫び声や電話の音を入れれば、かなり怖がらせられる。実際、映画でも意外と怖かった場面を思い返したときに、効果音が重要だったりするでしょう。『キャリー』というホラー映画の最後に、手が出てくるシーンがあってめちゃくちゃ怖いんです。あれなんて、冷静に思い返してみると、映像そのものよりも実は効果音の影響が大きい気がしますね。

――その後も、『かまいたちの夜』や『トルネコの大冒険』などの名作が続くのですが、中村さんのご経歴を拝見していると、物語をゲームの中に上手く取り込んでいるのだなあと思います。例えば、「トルネコ」なんかは、今度はサウンドノベルと違ってプレイヤーの側に物語が生成されていく構造になっていますね。

中村: これは、『ローグ』というゲームに影響を受けたんです。昔のパソコンマニアの人は知っていると思うのですが(笑)、キャラクターが"@"で、"M"や"A"が攻めてくるのを倒しながら迷宮を探索していくゲームがあるんですね。

それにハマっている会社のメンバーに渡されたのだけど、何が面白いのか最初はサッパリわからなかった(笑)。でも、あるときに未識別のアイテムが二つあって、その片方を使ってみたら、もう片方も識別されるという場面に出くわしたんです。そのときに、「あ、こうやってどんどん探求していくゲームなんだ」とわかったんです。そこから一気にハマってしまい、この面白さを何とかして家庭用ゲームのユーザーに伝えたいと思うようになりました。

それで思いついたのが、ドラクエのキャラクターと世界観を使えば、モンスターもアイテムの使い方も知ってるから、すぐに入り込めるんじゃないかというアイディアでした。では、主人公をどうするか。道具を集めてどんどん強くなるというのは、少なくとも勇者のイメージではない。だって、勇者というのは、むしろ自分自身が強くなるキャラクターでしょう。そのときに一番イメージにぴったりだったのが、アイテムを使いこなしていく武器商人のトルネコだったんです。

それにしても、ランダムにダンジョンが毎回変わるようにしたことで、毎回違うプレイが楽しめるじゃないですか。だから、シレンやトルネコって、ニコニコ動画にも沢山プレイ動画や実況が上がってるんです。実にニコニコ向きのゲームだったんだなあ、と思います(笑)。

D担: 実況者向けに作るゲームの元祖でもあったのかもしれないですね(笑)。

ゲーム作りで大切なこと

――お話を聞いていると、実は自作ゲームでも人気になっている様々なジャンルの元祖に中村さんはいたのだと思うんです。そういう発想力ってどこから生まれてくるんですか?

中村: いや、大抵のものには元ネタがあるんですよ。それはゲームだけじゃなくて、映画のような他のエンターテイメントの場合もあるから、とにかく色々なものに触れるのが大事です。ただ、そのときに重要なのは、「この面白さは一体なんだろう」と分析して、さらに「この面白さとこの面白さを掛け合わせられないか」みたいに、アイディアを発展させていくことです。

で、今度はそれを仲間と一緒に話すんですよ。そうすると、「もっとこんなふうに面白くできるぞ!」となっていく。僕らも、まあ昔は予算や稟議なんてないですから(笑)、みんなでご飯を食べてるときにそういう話になった勢いで、「よっしゃあ!」と実際に作ったりしていたものですよ。

――黎明期からゲームを見ていることが、新しいジャンルを切り拓く発想の糧になっているようにも感じました。

中村:それはあると思います。

そもそも、今はジャンルが当たり前に存在しているけど、僕らの頃はジャンルなんてなかったですから、ゲームは全部ゲームというだけでしたよ。とにかく、毎週のように見たことのないゲームが出てきて、それが僕にとっては、ただ単に「新しいゲーム」でしかない。そういう時代でした。だから、僕の中では、そういう別け隔てのようなものはあまり設けていなかった気がしますね。

――そういうふうに、まだゲームが未成熟で少人数で作られていた時代から、現在のように産業が巨大化していく中で失われたものはあると思いますか?

中村: あの頃は容量もまだ少なかったから、グラフィックも大したことなかったし、予算も小さかったんです。だから、それこそジャンルなんて気にせずに、面白そうなら「じゃあやってみようよ!」と、いくらでも冒険ができたというのはありますね。でも、これだけゲームに予算が掛かるようになってしまうと、そうそう無茶苦茶なことはできない(苦笑)。

そういう意味では自作ゲームって、ゲームの軸にある面白さの部分で勝負することが出来るじゃないですか。そういう中から何か面白いものが出てくるといいなあと思いますね。

D担: 担当者として個人的な思いを言うと、プログラムから作れる本格派の人にはむしろ既存のゲームにとらわれないものを作って欲しいなと思うし、実況を見てツクールで作り始めたような子たちには、過去のゲームを知って魅力的なゲーム設計に興味を持ってくれるといいなと思うんです。

ゲーム作りが上手くなるには――「仲間を集めることですよ」

――ゲームづくりが上手くなるにはどうしたらいいか、というのは聞いてみたいです。

中村: やっぱり、仲間を集めることですよ。

それが一番いい作品を生み出すし、アイディアも沢山生まれるし、なにより作っていて楽しいんですよ。そりゃ意見がぶつかり合うこともありますけど、そういう熱いぶつかり合いからこそ良い作品が生まれていきます。結局、一人で全部できるマルチな人なんてなかなかいないですからね。「俺はプログラムはできるけど他は……」「私は絵は描けるけど……」という人たちが集まってきて、みんなで協力しあって作っていくと、どんどん制作が楽しくなっていきますよ。

D担: 今日の話を聞いていて、「ゲームを作ると友だちも作れるのだなあ」と思いました。

中村: うん、作れる。で、みんなでアイディアを出し合って掛けあわせていくと、ゲームもどんどん面白くなっていくんです。

あと重要なのは、引き出しですね。アイディアは結局、「どれだけ自分の引き出しを持っているか」から生まれます。僕は色んなクリエイターの人と話してきましたが、ヒット作を生み出す人たちは、絶対に「面白さとはなんぞや」みたいなことを徹底的にロジカルに考え抜いています。凄いですよ、哲学的なくらいに考えています。

だから、そういう人たちは、何度でも面白いゲームを作りますよね。任天堂の宮本茂さんなんかもそうでしょう。偶然ではなくて、狙って作っているんです。

――中村さんご自身はどういうお考えで作られてきたのでしょうか。

というのも、実は最近、知り合いの塾講師が受け持っているクラスで、高校で文芸部にいるような女の子が自作ゲームを作ろうとしていたと聞いたんです。最近のブームって、そういう子たちを惹きつけるストーリーメディアとしての機能への注目もあると思うんです。

今日のお話を聞いていて、『ボートピア殺人事件』からドラクエシリーズ、それに『街』のような作品まで、やはり中村さんは物語化していった日本のゲームの歴史の、最前衛を切り拓いてきた人なんだと思いました。若い子が作りたがる自作ゲームが、どこか中村さんの作ったジャンルに接近してしまうのは、それだからかもしれないと思うんです。

中村: そうですね……でも僕は、そういう作品を作るときに、実は「ゲーム」の部分をすごく大事にしてきたんです。

例えば、『弟切草』が出たときに、値段が8800円したんです。だけど、小説なんかは文庫本で800円くらいだし、しかもじゃあ11冊分くらいのシナリオを作ればプレイヤーが満足するかというと、それは違う。そこにはきっと、ゲームならではの面白さが求められているはずだと思ったのですね。

だから、僕たちは『弟切草』はあみだクジ型にストーリーが変化するようにしたし、『かまいたちの夜』では末広がりのマルチシナリオにしたし、『街』ではザッピングという、各キャラクターのロックを外していくことで進行していくストーリーにした。小説や映画のようなワンウェイのメディアでは実現できない、ゲームならではの魅力を考えたんです。

それは、もしかしたら僕が古いタイプのゲームの作り手だからかもしれませんね。

確かに、現在はストーリーやキャラクターの魅力だけでも十分にゲームを楽しめてしまう時代です。でも、僕は「インベーダー」の時代からの、あの何度でも繰り返し楽しめるゲームが大好きだったし、そうやって何度も買った人に遊んで欲しいと思ってきたんです。だから、そのための仕掛けを凄く考え抜いてきました……まあ、そういうふうに考えすぎるせいで、難しくなり過ぎたりしちゃうんですけどね。『街』のサターン版なんて、やっぱりやりすぎでしたから(笑)。

――最後に、いま自作ゲームを作っているユーザーに、一言お願いします。

中村: いや、単純にこういう状況があるのは嬉しいですね。僕は会社に入ってきた若い子に、「ゲームは作るのが一番楽しい」って言うんです。確かにプレイするのは楽しい、でも本当に楽しいのはゲームを作ることなんだ、と。それをもっと沢山の人に味わってほしいなと思いますね。 (了)

See Also

vde
Interviews
Mystery Dungeon Chunsoft Thirtieth Anniversary InterviewInterview with Koichi Nakamura and Seiichiro NagahataKoichi Nakamura Interview: On the Birth of the Console RPGKoichi Nakamura talks about the secret to making gamesThe exquisite game balance of Mystery Dungeon is created from a single spreadsheet on Excel!? Spike Chunsoft's Koichi Nakamura and Seiichiro Nagahata talk about "editing" games
Final Fantasy Mystery Dungeon series C3 Exclusive Interview hand Talks Chocobo Mystery Dungeon on Nintendo
Dragon Quest Mystery Dungeon series Koichi Nakamura talks about Torneko's Mystery DungeonTorneko 2 GBA - Official Perfect Guide Interview with Koichi Nakamura and Seiichiro Nagahata
Pokémon Mystery Dungeon series 10 questions with Tsunekazu Ishihara Executive Producer of Pokémon Mystery Dungeon: Explorers & DarknessIwata Asks: Pokémon Mystery Dungeon: Gates to InfinityPokémon Donjon Mystère : interview Kunimi Kawamura & Shinichiro TomieWeekly Famitsu - Pokémon Mystery Dungeon: A new worldview
Mystery Dungeon: Shiren the Wanderer series DS Fanboy interview: Shiren the WandererInterview: Shiren the Wanderer and Making It Widely AvailableInterview - This is how Shiren was created!Interview with Chunsoft Over Development of New N64 RoguelikeInterview with Koichi Nakamura, Director, Shiren the Wanderer 3Interview with Spike Chunsoft about rereleasing or remaking Asuka the SwordswomanJoshin Web Shop Interview with Shiren 5 2020 Staff MembersLocalization mysteries revealed in our Mystery Dungeon: Shiren the Wanderer interviewMystery Dungeon: Shiren the Wanderer 2 - How was it made?Mystery Dungeon: Shiren the Wanderer Q&AOctober 20 2000 Interview with FamitsuSEGA Asks: Shiren the WandererShiren 2 interview with FamitsuShiren Exhibition Interview with Kaoru Hasegawa (4Gamer)Shiren Exhibition Interview with Kaoru Hasegawa (Famitsu)Tiny Q&A: Atlus on Shiren the Wanderer's ordeals
Other Mobile Suit Gundam: Mystery Dungeon Interview with Bandai Networks

References